“風の旅人” として多くの伝説を作ってきたデュエルン・レーフェンス。 愛車 “轟カル号” と共に渡ったXX国からお伝えします。ジオポタ海外支部からの便り

2009年10月30日金曜日

チュニジア報告その1

2月にベトナムのニャ・チャン、オーストラリアのダーウイン、ベトナムのフエ、7月にスロベニア、8月はトルコのケメル、そして今年最後の旅行、かつ40カ国目の節目としてチュニジアを選んだのは前にも書いたように、30数年前シシリー島へ行ったときの体験で一度行ってみたい思い続けていたことと、暖かく明るいところへ行きたい、物価の安いところへ行きたいなどの条件から必然的に決まってきました。

今回の旅行もExpress Toursというロシアの旅行社のパッケージです。航空券とホテルだけで、現地での小旅行や観光は現地に着いてからたくさんのメニューの中から選んで申し込むことができます。

飛行機はNouvelairというチャーター便専門のチュニジアのエアラインのA320、目的地はMonastir空港、宿泊はMahadia、チュニスの南200キロほどのところにあるリゾート地です。

空港に着くとExpress Toursと書いてある案内窓口があり、そこで旅行のチケットを見せると何番のバスに乗れと指示される。メルセデスの大型観光バスが待っていた。
満席のエアバスA320からこのバスに乗ったのはたった数人だけ、しばらく待つとまた数人づつ乗ってくる。最終的には30人ほど乗合わしたところでロシア人の旅行社のスタッフが乗り込んでバスはスタートした。後で分かったがこのバスにはキエフ、モスクワ、サンクトペテルブルグ、その他のからの客が乗った。
一時間半ほど走ってMahadiaに着く、いくつかのホテルに止まっては客を降ろしていく、私のホテルは我々だけでした。
ようするに、同じ飛行機に乗っても目的地はばらばら、同じバスには各国、各地からの客が乗り、その客の宿泊先もばらばら、なかなか面白いシステムになっている。

<カルタゴ>
チュニジアは紀元前何年かカルタゴが興隆していた地で、昔読んだ歴史本によれば当時ローマは新興国でフランス、ドイツあたりはまだ未開の地だったころ、強力なカルタゴ軍は度々ローマを脅かしていた。
何度かの戦でとうとう新興国ローマに破れ、その後はローマ帝国の支配下に入る。
現在残っている遺跡はそのローマ帝国時代のものばかりです。
その後さまざまな変遷を繰り返し、現在のチュニジア人は90%以上アラブ人です。
街で見る若い女性の美女の比率はかなり高く、30数年前シシリー島で出会ったチュニジア娘の記憶は間違いでなかったことが確められました。

<チュニジアの鉄道と道路>
鉄道が衰退している国が多い中でチュニジアの鉄道は元気!
北の方には標準軌道もあるようですが、私が見たのは全て狭軌でした。南アフリカ同様1メートルゲージ、日本のよりも67mm狭い、電化されている部分とディーゼル部分があり、地下鉄でもないのにメトロとよばれている。チュニスには路面電車が走っている。街の中を長い編成で走っている風景はイスタンブールと同じです。

道路はフランスの植民地時代に骨格が出来ているので、完全にフランス風、交差点はすべてロータリー式、ベトナムと同様です。
郊外は100キロぐらいで流れていますが街に入ると50キロ制限、幹線道路でも横断歩道の前後はハンプ(凸部)があり、速度を落とさせる。
交通警官の多さが目に付く。

2009年10月20日火曜日

待ちに待った暖房が入った!

きょうアパートに帰ったら、ほのかに暖かい!
待ちに待った暖房がやっと入りました。
ここ2、3日は氷点下でした。
ウクライナは地域温水暖房が完備されていまして、一定日数の平均気温が何度以下になると暖房用温水を供給するという決まりがあります。給湯用のお湯は年に一度のメンテナンス期間以外は一年中供給されています。

今週の木曜日、仕事が終わってからチュニジアに行ってきます。
6ヶ月毎の一時帰国を返上したので一週間の休暇をもらいました。
30数年前にシチリー島に行ったとき、対岸のチュニスからフェリーでたくさんのチュニジア人が観光に来ていまして、(浅黒い肌の小柄な美女が多かった記憶があります。)チュニジアに興味を持ちましたが、そのときはギリシャに渡ったので、チュニジア行きは果たせませんでした。

今回は40ヶ国目の節目としてチュニジア行きを決めました。
チュニスの旧市街、ローマ時代のカルタゴの遺跡や地中海、サハラ砂漠など見てくるつもりです。
今度の旅も、お供はいつものカーチャ・P嬢です。

2009年10月16日金曜日

Re: いろいろ/再びオデッサの話

> > 戦艦ポチョムキン DVDを借りてきて 見ました。
> > 淀川長治さんの解説が入っていて、生涯3本の指にはいる映画だということです。確かに無声映画の時代でとてもよく出来た内容で歴史的な映画でした。
> > オデッサの階段はウクライナ?いまはどんな風景なんでしょう。

オデッサの階段は2週間前に送った写真の通り今も健在です。
この階段を下りた先、ちょうど戦艦ポチョムキンが停泊していたあたりが客船ターミナルになっていて、イスタンブールなど外国航路の客船が出入りしています。
階段に沿って小さいケーブルカーが走っていて、料金無料しかも自転車も乗せてくれました。
(キエフのケーブルカーは1.7グリブナ(約20円)自転車はさらにもう一人分取られる。)

オデッサの街はキエフと違い高い建物がないのできわめてヒューマンな印象を受けます。

きょう久しぶりに晴れました。
今週から二つあるキャンティーンのうち遠い方へ食べに行っています。
早足で往復30分、ちょうど良い散歩コースです。
雪が降り出したら歩けないので、今のうちここは空港敷地内で一般人の立ち入りは制限されているのため大変のどかです。

きょうの写真はその散歩道です。
フェンスの向こうにロシア製の古い飛行機が捨ててありました。

2009年10月15日木曜日

今週の美女ウオッチング

こちらは既に寒いです。
それに毎日天気が悪い
10月に入って最低気温0度の日が3回もありました。
いつから暖房が入るか、そればかり首を長くして、いいえ身体をまるめて待っています。

今週の美女ウオッチングは将来の美女候補生です。

2009年10月14日水曜日

紅葉は終わり

キエフの短い紅葉は終わってしまいました。

通勤の車から真赤に染まった蔓のような植物やまっ黄色に染まった楓科の樹など見えていたので、日曜日に写真を撮りに自転車で行こうと思っていましたが、あいにく朝から冷たい雨が降り、そのあと昨日も今日も天気が悪いです。
きょう昼飯のときに周りの樹を見ると、黄色く色づいていた葉は、あらかた散ってしまいました。

写真は先週の土曜日、現場で撮ったものです。
もう一枚は鉄筋のカゴで遊ぶ雀

2009年10月11日日曜日

肖像画

きょうは午後からタマーラとカーチャが来て、タマーラが私の肖像を画いてくれた。

1時からはじめて、途中食事やお茶を飲んだりして夕方6時までかかった。
じーっと動かないでいるのも疲れる。

来週から寒くなるようで、雪が降るかも知れない。
明日天気が良ければ紅葉を求めて近くの森へツーリングするつもりです。

2009年10月7日水曜日

キエフの秋

強い台風18号が接近しているようです。
くれぐれもご注意ください。
ウクライナは寒いことを除けば、いたって天災の少ない国です。
それでも数ヵ月前、突風で木や電柱が倒れる被害がありました。
台風に比べれば子供だましみたいなものですが

ウクライナとロシアの関係は他の旧ソ連圏とはかなり違います。
・民族的にかなり近い
・ロシアのルーツはキエフにあり。
ロシア人にとってキエフはイエルサレムみたいなもの
・ウクライナはロシアと手を組んで一緒に戦ってきた歴史もあります。
・ウクライナには20%弱のロシア人が住んでいるし、ロシア人の血を引いた人はさらにいるでしょう。

これらのことから複雑過ぎて理解不可能です。
ソ連崩壊と同時にウクライナは独立した訳ですが、これで人々が幸せになったかと云えばニエットです。
貧富の差は広がり、多くの貧困層を生む結果となった。
並ばなくても物が買えるようになったという話しも聞きますが、ソ連時代の方が良かったという声も多く耳にします。
一人一人その辺の受け止め方は違うようです。

来年1月に大統領選挙があります。
現職大統領とユーリヤ・シモチェンコとヤヌコヴィッチが立候補を表明していますが、いろいろな人に聞くと、現時点ではヤヌコヴィッチが優勢なようです。
ヤヌコヴィッチは親ロシア派ですから、現在のぎくしゃくした対露関係は多少改善される可能性はありますが、国全体の流れとしてはEUに向いています。

キエフ周辺では日本のような綺麗な紅葉は見られません。
多くは枯れて散るだけです。
それでも多少葉が黄色く色づくものもあります。

朝晩の気温は東京の真冬並みです。
きょうの写真はそんなキエフの秋の風景です。

2009年10月3日土曜日

ウクライナのオジぃサン

> > ヘルメット姿の写真、建築現場のようですが何を建てるのでしょうか。

首都の国際空港のプロジェクトにかかわっておりますが、老体にいくら鞭打っても力仕事は出来ないので、建築設計の仕事を担当しています。

> > 「ウクライナ」から連想する言葉。
> > 穀倉地帯と黒土地帯と言う言葉です。負の言葉としては「チェルノブイリ」が筆頭です。

ウクライナの歴史をひも解くと、侵略と殺戮の繰り返しで、いつの時代も周辺国から侵略され尽くしています。
その落とし子がウクライナの美女につながるので、手放しで喜べることではないのです。

> > 「戦艦ポチョムキン」の、乳母車が階段から転がる場面はオデッサだったように思います。
> > オデッサもウクライナ!

この映画、もし見ていない方が居られましたら、是非観て欲しいと思います。
無声映画の時代にこのカメラワークは本当に凄い。この事件が契機になってロシア革命に発展するのですから。

アンタッチャブルの階段のシーンはこの映画の乳母車のシーンのリメイクです。
この階段は今も健在です。添付写真は この階段で撮った我が愛車です。

> > インフレで買えそうにない車、でも免許を取る。60年代後半の私と同じような気がします。
> > 今の日本と違ってウクライナの若い人たちには、未来は全て薔薇色なのかと思います。

ここの若者は本当に勤勉かつ希望に燃えています。
将来はきっと薔薇色でしょう、そう願わずにはいられない。

2009年10月2日金曜日

ウクライナのパパ?

トルコのケメルでは周りの人々にパパと呼ばれていました。
ジジでなくてよかった!

海の色は信じられないくらいきれいでしたね、 海の中から光を発しているような感じがしました。 

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