“風の旅人” として多くの伝説を作ってきたデュエルン・レーフェンス。 愛車 “轟カル号” と共に渡ったXX国からお伝えします。ジオポタ海外支部からの便り

2010年4月27日火曜日

取りとめのない話

ジオポタゴールデンウィーク企画はみちのく横断ですか、いいですね。山寺は、かの松尾芭蕉も真夏に訪れて次のような句を残していますね。

「山寺や岩にしみいる蝉の声」

私もこの情景に逢いたくて10数年前の夏に山寺に行きました。 私の子供のころは階段に沿ってコンクリート製の滑り台があって茶店で何か尻の下敷くものを借りて、帰りは長〜い滑り台を滑って帰ってきたものです。10数年前に行ったときは跡形もなく消えていました。 境内で売っている醤油で煮込んだこんにゃくおでんも懐かしいです。今もあるかな?

先週の土曜日は再びバリショイ・バレーを見てきました。演目はカルメン・スイートとシェラザードです。

カルメン・スイートの音楽はオペラのカルメンと同じですが、振り付けはモダーンでした。 シェラザードは千夜一夜物語ですから衣裳が艶かしい。 きょうの写真はもっぱら観覧席の様子です。 キエフオペラ劇場の客席は典型的な馬蹄形をしています。 この形がオペラ劇場のベストだと思いました。客席の臨場感が最大に発揮できますから。

今回は3階ギャラリー席を取りました。 横2席ずつ壁で仕切られていて、ドアも別々です。なんかVIPなった気分、
これで1800円ぐらい、安いです。 舞台も奥まで良く見えるし、オーケストラピットも間近に見ることができる。 次回はアイーダを最上段から見てみたい。

日曜日は久しぶりに晴れたので、シーズンを控えて足慣らしにアパートの近所を少しだけ走りました。 気分爽快!

日本ほどではないですがウクライナもゴールデンウイークです。どこか近場へ旅行しようと考えています。

2010年4月18日日曜日

グルジア報告最終回<トビリシ散歩>

グルジアに来てから毎日曇り時どき小雨の天気が続いていましたが最終日になり初めて晴天になりました。

帰りの飛行機は夕方6時発なので4時までにホテルに戻ればよい。メトロと徒歩でトビリシの街をのんびり散策することに。

カーチャはロングスカートに穿き替えてウキウキ気分!

 悪ふざけでソ連の帽子を被りたいという。ロシアと戦争している国でCCCPのロゴが入った帽子はちょっと危険なのでは、写真だけ撮って止めさせました。(ロシアとグルジアの紛争はとっくに停戦したと思っていましたが、こちらの人達はいまだ戦争中という認識でした。)

(因みにソ連を表すCCCPはロシア語に触れるまで何のことか分かりませんでしたが、英語のSSSRに相当するロシア文字でした。)

閉鎖中の由緒ありげな古い映画館”シネマハウス”の一画にあるレストランだけがオープンしていました。店内は1960年代の映画のスタジオをテーマにした内装で、懐かしいジャズが流れています。

壁にはマリリン・モンローやオードリー・ヘップバーン、アラン・ドロンなど往年のスター達の写真が貼ってあり、あちこちに撮影に使う道具などがちりばめられています。

映画好きの老人達がジャズを聴きながらコーヒーを飲んだり新聞を読んだりしている光景はたまらなくいい雰囲気です。

2010年4月17日土曜日

グルジア報告10<夜景>

こちらはいま大変なことになっています。

アイスランドの噴火でヨーロッパ全域の飛行機が飛んでいません。
キエフでは昨日、国内線だけ飛んでいましたが、きょうは空港が全面的に閉鎖されました。
オバマ米大統領はじめ各国首脳が参列予定のポーランド大統領の葬儀がどうなるのか気になるところです。

それにしてもポーランドはついていない、スターリンによるポーランド人大量虐殺の式典に参加する為にロシアに向った政府専用機が現地で着陸に失敗して大統領はじめポーランドの要人が全員亡くなり、その葬儀がまた飛行機が飛べず開催が危うい。経済的影響も極めて深刻です。


グルジア報告その10<夜景>
トビリシに限らず、キエフでもヨーロッパでも街の夜景が美しい。

ウクライナやグルジアのように貧しい国でも街のライトアップだけは熱心です。夜の街は本当に美しい、その街に夜到着するとさらにその印象が強い。

以前「日本はライトアップの文化が貧困だ」というような意味合いのことを照明デザイナーの石井素子さんが朝日新聞のコラムに書いていました。
確かに日本の都市はただ明るいだけで美しくないですね。看板とネオンだけが明るく、ライトアップのやりようがない、これも一つの文化でしょうか?


キエフのライトアップは幻想的ですが、トビリシは更にカラフルな照明が特徴みたいです。ドーム屋根の上に国旗を掲げている建物は大統領官邸です。

これまで見たライトアップで今でも印象に残っている街はドブロブニクのスタリゴーラッド、セビリア、キエフのライトアップもなかなかきれいです。

2010年4月16日金曜日

グルジア報告9<グルジアのジャパン>

ソソの母親リエィーラが墓参りをしている間、我々3人とソソの親友を誘って郊外の観光スポットへ出かけました。途中の山の上にも古い教会がポツンと建っています。

走ること20分ぐらいで最初の目的地に着きました。4世紀の城壁が残る遺跡でした。地元の人もチラホラ散歩に来ています。

写真の3人連れの二人は母親と息子です。日本とウクライナからの珍客に興味深々でした。この母親からイースター玉子をもらいました。たくさん作ってきて出会った人に配るようです。

イースター玉子は殻を茶色に染めたゆで卵です。何かと一緒にゆでると茶色に染まるようですが、何だったかは言葉が分からなかった。お互いにイースター玉子をぶつけ合って割れた方が負け、没収される。このような遊びをやります。

落石が多い山道を上り下りして河原に出るとそこには温泉が湧き出していました。目の前はせせらぎと鬱蒼とした新緑です。露天風呂にしたら最高のロケーションだと思いました。

<グルジアのジャパン>
この近くに地図にも載っていない小さな村があり、その村の名前がジャパンという。

今朝ホテルで軽い朝食を食べたきり何も食べていない。今日はイースターなので店もレストランも全て閉っている。帰り道やっと一軒のシャシリキ屋を見つけた時は既に日が暮れてからでした。

グルジア報告8<小旅行2、SENAKI>

セナキの町は人口数万の小さい地方都市です。
グルジアに侵攻したロシア軍はここに検問所を置いていました。

ソソの実家は道路から石段で数メートル上がった見晴らしの良い土地に建っていました。
現在は管理してくれる女性が一人住んでいます。
久しぶりの帰郷だったようで近所の人達が集まってきて再会をたいそう喜んでいました。
写真はソソの実家(レンガ壁の建物、今は半ば朽ち果てていましたが当時は豪邸だった面影は残っています。屋内プールもありました。)


ソソの老母”リエィーラ”と幼友達(名前は失念)とグルジアのお墓、ウクライナの墓と全く同じ風景です。

リエィーラが墓参りをしている間、我々は郊外の観光スポットへ出かけました。

2010年4月15日木曜日

グルジア報告7<小旅行1>

3日目はソソの車に乗せてもらい西にあるセナキまでドライブです。

セナキはトビリシから約300キロ西にあり、ソソの家族が昔住んでいた町で墓もここにあるそうです。イースターは日本のお彼岸に相当するので、教会でお祈りした後、墓参りするのが慣わしです。
ソソの母親が墓参りに帰郷するので我々もそれに便乗させてもらいました。

黒海へ注いでいるリオニ川に沿って途中何度も観光スポットに立ち寄りました。11世紀ごろの教会がたくさんあります。

SENAKIから50キロほどで黒海に面したPOTIですが、残念ながら時間がなく断念!
途中の道端に奇妙な形をした廃屋があり、私は住宅かと思ったら、カーチャは公衆トイレだという、ソソはレストランだという。
このあたりは焼き物の産地のようです。
同じ形の住宅がびっしり建ち並んでいる一画が続き、何かと思ったらオセチアの難民収容所でした。

グルジアとロシアの戦争は南オセチアの分離独立派をグルジア軍が爆撃したことに端を発しているわけですが、戦争状態になったオセチアから大量の難民がグルジアに押し寄せました。

近くにはロシアと戦闘があったグルジア軍の基地もありました。

・写真は古代の砦の遺跡です。

グルジア報告6<メトロと鉄道>

どこへ行っても必ずチェックするのが駅とバザールです。駅は単に鉄道が好きだからですが、バザールはそこの暮らし向きが垣間見えるからです。

トビリシのメトロはキエフと良く似ています。プラスチックのメダルを買って改札を通るのも同じ、キエフよりも少し新しい、車両も新しい。

ロシア語の中央駅と同じ発音をする地下鉄駅でメトロを降りると確かに鉄道駅がありました。
駅の周りはバザールです。駅舎は建設途中で混沌としていました。

駅に隣接してロシア語で郵便局と書かれた巨大な廃屋がありました。

スナップ写真の客車はトビリシ--エレバン(アルメニア)間を運行しているようです。

ロシア語表記がなければ何も分からない。

2010年4月14日水曜日

グルジア報告5<パーク>

街を見下ろす山の上にある公園に行きました。

小雨降る天気のせいか、イースターの為か閑散としていました。

レストランも売店も遊具もすべて閉っていました。
街から専用のケーブルカーで昇ってくるレストランもありましたが改装中でこれも休業中、晴れていれば素晴しい風景だと思いましたが、あいにくの雨で視界が悪い。

途中で見たガラス張りの建築は美術館か博物館と思いましたが、なんと個人の住宅だそうです。

人工の湖には人工の滝が流れ落ち、屋上にはプールがあり、円い屋根の上はヘリポートです。
日本の金持ちとはスケールが違う。何をやっている人かと聞けばイラクオイルの利権を持っているそうです。

2010年4月13日火曜日

グルジア報告4<レストラン>

土曜日の昼、面白いレストランがないか、ソソに聞いたら、自分が案内するといって連れて来られたのがこのレストランです。

店内はグルジアの古民家を模したような内装で楽しい。地ビールも作っている。
ソソはトルコ人の青年を連れてきた。イスタンブールからの旅行者で名前をツルガイという、この後すぐに空路アゼルバイジャンのバクーへ旅び発った。

グルジア語とトルコ語はまったく文字が違うけれども言語としては似ているのだそうです。その他アゼルバイジャン、ペルシャ語が似ていると云っていました。

ウクライナ、日本、グルジア、トルコ、まったく民族の違う4人が一つの食卓を囲み楽しい昼食でした。もちろんグルジアワイン注文!

ツルガイ君はモスレムなのでワインは口にしなかった。
餃子に似た料理はグルジア版小龍包で食べ方は少し冷ましてから、まずスープをすすり、そのあとおもむろにかぶりつく。

可愛いウエイトレスがいたのでさっそく記念写真!

2010年4月12日月曜日

グルジア報告3<トビリシの街>

トビリシの人口は110万人、仙台と同じぐらい、それにしてはどこへ行ってもあまり人がいない。 イースターのせいでしょうか?

それに引きかえ教会の多さはすごい、どこを見ても教会が見える。
かってこれほど教会、寺院のある街を見たことが無い。

どこの教会も同じような建築様式で11世紀頃に確立されたグルジア独特のスタイルです。

人々は極めて信仰深い、どこの教会に行っても老若男女たくさんの人々がお祈りに来ています。もっともイースターは日本のお彼岸に当たるのでこの日にお祈りに行かないと罰が当たるのかも知れません。

街は高層ビルも現代建築も極めて少ないので優しい感じがします。特に細い列柱を並べたバルコンを持つ建物は風情があります。

街の中に硫黄温泉の公衆浴場がありました。お椀を伏せたような形の建物がそうです。

街の中心部にあるオペラハウス、映画館、何かの役所のような建物など閉鎖されている施設があります。
先の戦争が理由か、ソ連から独立後、復活させる資金が無いのか不明です。


地方都市には製鉄所など巨大なプラントや工場が半ば朽ち果てて、遺跡のようになっているのを見かけました。

2010年4月11日日曜日

グルジア報告2<グルジア及びグルジア人のこと>

グルジアは私にとって殆んど未知の国でした。
古くはソ連の外相であったシュワルナゼが独立後初代大統領になった事やウクライナに来てからはワインの産地として、そしてロシアとの戦争ぐらいしか知識がありませんでした。どこに位置するのかもよく知りませんでした。ユーリヤさんに勧められたことやグルジアバレーを見てから急激に興味を抱きました。


グルジア人はバレーを見た限りではトルコ人に似ているのかなと思いましたが、全然違います。もちろんロシア人やウクライナ人のようなスラブ民族とも全く違います。
コーカサス人独特の風貌で特に鼻の下から上唇にかけての稜線に特徴があります。
それでも黒髪、黒い瞳の人から金髪、青眼まで様々です。最初金髪で青い眼の人は外国人かと思っていましたが聞いてみたら皆グルジア人とのことでした。


グルジア人は誰でもあたりまえのようにロシア語が話せますが、彼らどうしはグルジア語で会話しています。街でロシア語を見ることは稀です。殆んどの人がロシア語で会話しているウクライナとは対象的です。


グルジア人はロシア人とは民族的にも文化も歴史も全く違うので当然でしょう。独立後に急激に変化したのではなく、ソ連時代からグルジア人のアイデンティティーを頑なに守ってきたようです。日本語のグルジアはロシア語読みですが、ロシアとの紛争の後、英語名のジョージアに変えて欲しいと日本政府に要請したようですが、どうなったのでしょうか?


ブッシュ大統領がトビリシを訪問したのを記念してジョージ・ブッシュ通りと名づけた道路がありました。
因みにグルジア語でグルジアをなんと言うのか聞いてみたら"サカルトヴェロ"グルジアともジョージアとも全く似ていない。


ソ連の独裁者スターリンがグルジア出身というのは不思議な感じがしますが、ヒトラーもオーストリア出身という奇妙な一致があります。

ワイン以外たいした産業も無いようで、ウクライナよりも更に貧乏な印象を受けます。


グルジア人はロシアに大量に出稼ぎに出ていたようですが、ロシアとの戦争で多くが追い出され、その一部がウクライナに流れて来ています。
2006年当時のキエフは凶悪な犯罪は極めて少なかったでしたが、最近は銃を使った強盗など頻繁に発生しています。その多くがグルジア人によってもたらされていると日本大使館からメールによる注意が送られてきました。(日本大使館からは直メールで様々な情報が送られて来ます。)

グルジアは山脈に囲まれているので、どちらを見ても山ばかりです。トビリシの街も起伏が激しく、周りはやはり山です。


写真はホテルのすぐ近くの小さい教会とそこからの眺め、教会にお祈りに来た少女とカーチャの記念撮影、ホテルの向かいの小さいパン屋、教会でキャンドルに灯を分けて貰った人達が立ち寄ってパンを買って帰る。
壷のような釜の内側にペタッと張りつけて焼くパンは物凄く美味しい。
グルジア文字の看板、まったく解読不能!
古い住居表示にロシア語が残る。

2010年4月10日土曜日

グルジア報告1<到着・プチホテル>

18:55分、キエフを離陸したウクライナ航空のおんぼろボーイング737は定刻の22:15分にトビリシ空港に着きました。
ウクライナとグルジアは時差+1時間なので2時間20分の飛行です。


インターネットで予約したホテルからは迎えのタクシーがくる筈でした。
メールには私の名前を書いた旗を持ったタクシーが空港で迎えると書いてありましたが、ところがそれらしいタクシーはいくら捜しても見当たらない。


携帯電話でホテルに電話しようと試みてもつながらない。(イスタンブールではウクライナのシムカードで掛けられたのに


タクシーと叫びながら一人の男が近づいてきた。
白タクだなと分かったけれども事情を話すと彼がホテルに電話してくれた。
適当なタクシーに乗ってホテルに来るようにとのこと、まったく無責任な話し!


仕方がないので彼の車でホテルに行くことにしました。
車中でいろいろ聞いた内容によると、彼は名前をソソと云いウクライナ生まれでウクライナのパスポートを持っている。

父親はグルジア人(故人)、母親がウクライナ人とグルジア人のハーフ、グルジアで旅行エージェンシーを営んでいて、トビリシ旧市街に小さなホテルも経営している。


我々が予約したホテルは場所が悪く、どこへ行くにもタクシーを呼ばなければならない、という。
途中下車して彼のホテルを見せてもらった。


ルーム数8部屋程度の極めて小さいホテルながら設備は充実しているし、清潔に掃除も行き届いている。

この後、予約したホテルに行ったが、確かに場末といった感じ、解約出来るか”ソソ”に交渉してもらい、違約金なしで解約することが出来て、彼のプチホテルに落ち着きました。


写真は”ホテルポント”テーブル三つしかない食堂、ホテルの女将 とツーショット
ホテル周りの風景、壊れかけた建物が目立つ、ロシアとの戦争によるものか不明?

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