“風の旅人” として多くの伝説を作ってきたデュエルン・レーフェンス。 愛車 “轟カル号” と共に渡ったXX国からお伝えします。ジオポタ海外支部からの便り

2016年1月8日金曜日

シーギリヤ報告その4 <シーギリヤ・レディ>

1875年、イギリスの植民地時代、一人のイギリス人がこの岩山を望遠鏡で眺めていたら中腹の窪みに鮮やかな色彩を発見した。

これによりシーギリヤ・レディが全世界に知られることになった。

中腹のオレンジ色した部分が鏡の壁です。

壁と岩との間に狭い通路が出来ています。そこに2本の細いらせん階段が作られていて、シーギリヤ・レディの壁画がある窪みに達しています。

右側が登り専用、左側が下り専用です。このらせん階段は植民地時代にイギリスが作ったそうです。

現地に行くまで分かりませんでしたが、このような壁画があちこちに描かれていたようです。

現在残っているのは窪みの中にあって風雨にさらされず、かつ人間が近づけなかった場所にあった為と思います。

他の場所の壁画は風化して剥離したり、人為的に破壊されたと思われます。

シーギリヤ・レディの壁画は世界的に有名なので度々写真では見ていましたが、大きさがまったく見当付きませんでした。
実際に目にして、存外小さいのです。

等身大の半分ぐらい。
シーギリヤ・レディをしげしげ眺めていると様々な空想に掻き立てられます。
上半身裸の女性と着衣の女性がいます。着衣の女性は裸の女性に盆に載せた何か果物みたいなものをサービスしています。メイドか下女でしょう。

下位のものが着衣で高位の女性が裸では不自然です。胸の部分だけ白く、他が浅黒い女性もいます。もしかしたらトップレスではなく何か極薄いものを身に着けていたかも知れません。




しかし、こんな昔にそんなに薄い繊維が存在したか疑問は残ります。

そもそもこの女性たちは誰を描いたのか? 王に500人も子供がいたということはハーレムには数百人の女性がいたことでしょう。このハーレムの女性たちを描いたのだろうか、想像は尽きません。
これらのことはすべて5世紀後半の出来事、高松塚古墳の200年以上も昔のこと。
シーギリヤ・レディの壁画です。とくとご覧ください。そして1500年前のロマンに浸ってください。
最後にちょっと小太りですが現代のシーギリヤ・レディです。

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